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N=1視点で勝手に「場」を語る社員コラム【東京場論 vol.2】バス停体験から考えた、つながりが湧き出る場所とは

2024.03.29

さまざまな文化・情報・トレンドが生まれては消えていく街・東京。 そんな東京で働く広告会社の社員が、興味を惹かれたいろんな「場」をテーマに、自分で見て感じたことを気ままに発信していく連載コラム。

なぜバス停では会話が生まれるのか。

大学1年生の冬、とある日の夕方。英語の外部試験を終えた私は、冷たい雨の中、バスを待っていた。バス停には、試験を終えた人々で長蛇の列ができていたが、待つこと15分。

やっと、次のバスに乗れそうな順番になった。かじかんだ手をこすり合わせながらバスが来る方へ目をやると、横に並んでいた40代くらいの女性と目があった。

「寒いですね。試験終わりですか?」そう聞かれ、
「はい。試験が終わって先ほど並びました。寒いですよね。」と私は答えた。

「私も受験でここまで来ました。今回の問題、○○が難しかったですよね。」

それからバスが来るまでの間、何問目がテキストの練習問題にない内容で難しかった。あの章は解きやすかった。受験は何回目…などその女性と試験の話をした。

やっと乗るバスが見えたとき、「もっと早く渡せば良かったんですが、これどうぞ。」と言って女性は私に1枚の使い捨てカイロを差し出した。

「ありがとうございます。」

見ず知らずの、今日初めて会話した私にくれたカイロ。その奥にある気持ちが嬉しかった。ほんの十分の出来事だったが、人とのつながりを実感した瞬間だった。

コミュニティの狭い地方出身だからだろうか。私は、街で見知らぬ人とたわいもない会話をすることに小さな幸せを感じる。たわいもない会話を他の人と共感・共有することで、人とのつながりを感じられることが嬉しいのだ。上京したての頃から、目まぐるしく変化する都会・東京ではそんな機会を得られないだろうと思っていたが、思いがけず地方にいたころのようにたわいもない会話を取り戻せた場所が、このバス待ちの列だった。

バス停での会話、自然発生説。検証しに新宿へ

ところで、このちょっとした会話が生まれたのは偶然なのだろうか。バスを待っていたあの日、横に並んでいた女性がフレンドリーだっただけだろうか。東京の他のバス停でも同じことが起きるのか?そんなことを思い先日、新宿駅西口のバス停へ行ってみた。

平日のお昼過ぎ、百貨店の前にはバスを待つ列ができていた。どの方面へ行くバスなのか時刻表を見ていると、行列に並んでいたご年配の夫婦と大学生くらいの2人組が会話をしていた。

2人組が「○○行のバスで合っていますか?」とご夫婦に尋ねたことをきっかけに、「合っていますよ。混雑で遅れていると思うんですが、バスが来ないと不安になりますよね・・・。」と小さな会話が発生していた。

バス停での経験、今回街で見た光景は、私が地方で経験してきた人とのつながりに近い。だが、街の中でたわいのない会話を感じてほっこりできる場所は、きっとバス停以外にもあると思った。そこで、バス停をヒントに、たわいのない会話を楽しめる、ゆるい繋がりが湧き出る場の条件を考えてみた。

つながりが湧き出る場所とは

つながりが自然発生する条件とは何だろうか。バス停での経験を軸に、3つの条件があるという仮説に至った。

まず、一つ目は、同じ共通項を持った人が集まる場だ。バス停に並ぶ人は、目的地は違っても同じ場所から向かうという共通項がある。更に、私が経験したように試験やイベント会場の近くであれば、同じ目的を持った人、同じものが好きであったり、似たような嗜好を持っている人が集まることが考えられる。そこに来たきっかけや背景は違っても、共通項がある相手とはやはり話もしやすいのではないか。

二つ目に、話せる時間に限りがあることである。私がカイロをくれた女性と会話したのは、バスが来るまでのわずか十分ほど。バスが来るまでの出来事である。そもそも待ち時間が発生していなければ、会話すること自体なかったであろう。(バスが来れば会話をやめるのも自然なこと、限られた時間設定が見知らぬ人同士のゆるい繋がりを許すのかもしれない。)

最後の条件として、空間に制約があり、話せる相手が限られることだ。バス停は両隣、もしくは前後というように、接する相手が限られるため、必然的に話しかける相手も限られてくる。バス停という非常に狭い空間での人の配置。お互い話し相手が限られるこの制限が自然なつながりを生み出しているのではないかと思う。

ゆるいつながりを生み出す仕掛け

ところで、世の中にあるつながりを生む目的でつくられた空間をいくつか思い起こしてみた。

例えば、公共施設の交流ラウンジや会社の休憩スペース。その多くが、場所だけ与えられて制限がない空間のように思う。他には、形状が円卓で自分で自由に座る場所を選べる、など、裁量が多い。多くの裁量を委ねられた空間で、見知らぬ人とたわいない会話をするのは、正直、自分には勇気がいる。対して、私がたわいない会話を経験したバスの待ち列は、共通項があり、時間的、空間的にも・話しかけられる相手も限られる場だ。

私が思うに、もしかしたら、見知らぬもの同士の会話やつながりを生みだすためには、制限が鍵なのかもしれない。制限がある中でのゆるいつながり。矛盾しているようであるが、共通項を持った人との限られた時間、空間だからこそ、その場限りだからこそ、気軽に人と会話しようという気持ちになるのではないか。

案外行列に並ぶのも良いかもしれない

ゆるやかな繋がりが生まれる3条件を提唱したところで、バス停の他にも私が東京でつながりを経験した場面を共有したい。

先日、パン好きの友人と一緒に入店まで90分待ちのパン屋の行列に並んだ。上京して7年になるが、ありとあらゆるものに行列ができていることには未だに驚く。世の中には行列に並ぶのが好きな人もいれば苦手な人もいるが、私は、後者だった。

だが、この日の私は行列を楽しむことができた。「ここ最後尾ですか?」という後ろに来た親子の声をきっかけに、待っている間、お目当てのパンや都内にある他のパン屋の話などの会話で盛り上がったのだ。その日初めて会った同士であるが、その場に惹かれてやってきた、目的が同じ相手だからだろう、会話が弾んだ。

入店を機に、それ以降話すことはなかったが、行列という限られた時間、決められた場所、前後という話す相手も限られるシチュエーションだからこそ、ゆるやかにつながりを楽しめたのだろう。実は、行列は、バス停の体験で気づいた「つながりが自然発生する3条件」を備えているのだ。

誰かと話すことやつながりをつくることを主な目的とするよりも、会話が自然発生する場所を都会の人もきっと求めていると私は思う。行列に並ぶ行為はネガティブにみられがちだが、ゆるく心地よいつながりが恋しくなった時、私は行列に並びに行くかもしれない。

【企画参画・協力】
マーケットデザインセンター 加藤亜玲
都市生活研究所       深見恵理
コーポレート局       大瀧祐哉

若林 真衣

都市生活研究所

都市生活コンサルティングルーム

まちづくりに関心を持ち、学生時代は、市民祭の親善大使やコミュニティFMのパーソナリティを務めた経験も。東北出身だが寒いのが苦手で、温泉巡りが趣味。